せきららデトックス

とあるピアニストの毒出し日記

暴力

暑い。もう10月半ばだというのにこの蒸し暑さ。さすがに異常気象や地球温暖化という言葉を意識してしまう天候。

さて、先日職場で非常に暴力的な現場を見てしまい、中々に衝撃的だったので今も忘れられずにいる。
所謂、会員制の高級飲食店だ。私はそこで時々演奏している。

もちろん実際に暴行があったわけではなく(でも壁に押し付けていたのでほぼ暴力だろうが)失敗したスタッフに対し、リーダー的立場のスタッフが罵倒していたのだ。以下、失敗さんとリーダーと呼ぶことにする。

暴力的なものに対してあまり免疫のない私にとっては、目にも鮮やかな行為だった。一旦場が収まった次の瞬間、リーダーは失敗さんが勘づく前に壁に押し付け、思いっきり怒鳴り付けた。余りにも本能的、感情的で、ああいう時、人は殆ど動物と変わらない。強い者が弱い者を虐げる。暴力的制裁を受けた失敗さんも、ただ苦しげに謝罪を繰り返すばかりだった。どうやら彼の失敗はかなり致命的ミスだったようで、だからこそリーダーも怒り狂ったのだろう。

そもそも、この二人は気が合わないようだ。素早く気が回り、店全体を見て動くリーダーと、お客様一人一人に丁寧に朗らかに対応する失敗さんとでは多分動いている時間軸が違う。故にリーダーは常に彼に苛立ち、失敗さんは丁寧が故の行動の遅さがミスを招いてしまう。悪循環なのだ。直接聞いたわけではないけれど、見ているとそんな風だった。

彼らのやり取りにどうこう言うつもりはない。まあ、誉められたものではないだろうけど、どちらにも非と言い分があるだろうし、彼らなりのルールというか、やり方なのだろうし、私はそれをとやかく言う立場ではない。

ただ、見ていて思った。こういう暴力的行為は実は音楽の世界にも存在する、と。

物理的な行動の話ではない。純粋な暴力を行う音楽家なんて聞いたことがない。
ただ、それに近い横暴を、時として行う者はいる。それは「教師」としての立場で最も発揮されるのだ。

暴力とは恐怖だと思う。前述のリーダーも恐怖をベースに、失敗を理解させようとしたのだ。

この恐怖を、生徒に用いるピアノ教師はゴマンといる。今は少ないだろうが、一昔前は確実にいた。実際、私が師事している師匠もその気があるし、高校時お世話になっていた先生はまさにそれだった。

弾けなければ何故弾けないのかと詰る、罵倒する。「こうやって弾くの!こう!」と言って、腕の上を指でぐいぐい押される、ペダルの足を踏まれる。
少しでも違う解釈で弾けば、そんなのは音楽じゃない、と怒鳴られる。

出来ないのだから仕方ない。皆こうしてやってきた、私もそうだった、あなたを思って言っている。
と、先生は仰っていた。実際、その想いも私は感じた、何も先生は私が憎いわけではない。ピアノを離れれば先生は気さくで優しかった、励ましの言葉もいくつももらった。人間的には理知的で立派な人だ。私は先生方を尊敬している、それは、心からそうなのだ。

一方で、私はあの恐ろしい洗脳的レッスンから未だに逃れられないと痛感する。自分で自由に解釈し勉強していくことは楽しいけれども、大きな不安が付きまとう。先生が納得してくださるかどうか。無意識に気に入られるように作るような気がする、というジレンマ。そしていざレッスンとなったときの信じられない緊張感。それに伴う疲労感。
もういい年の大人なのに、それは学生時分と変わらない。大人になった分、余計に色々考えているのかもしれない。

こんな風に弾きたい、という気持ちが初めから挫かれている気がしてならない。

勿論、師匠が色々言ってくださるのは私の不勉強のせいだ、シビアだからこその叱咤だとは理解している。

私自身もピアノ教師の仕事をしている。以前は、自分が受けてきた経験をそのままぶつけるようなレッスンをしたこともあった。今から思えば、当時の生徒には気の毒な事をしてしまった。今ではなるべくそれはしないように、少なくとも感情をただぶつけるようなレッスンはしまいと自分を戒めている。

仕事なら厳しく叱責される場面もあるだろうが、音楽は違う。やはり、心から楽しまなくては音楽とは言えない。自分を振り返ってそう思う。辛い事ばかりだった訳ではないけれど。

恐怖は何も生まない。相手の心を硬くさせるだけだ。あの失敗さんの苦しげに歪められた表情を、嘗ての私の生徒にもさせていたかもしれない、そう思うと胸が痛んだ。